実は、紅型に興味のなかった私。
その私が、なぜ、金城昌太郎の作品を身に着けたくなったか。
そして、世に広めたくなったかまでのストーリーです。
私、金城昌之は、
1981年5月12日に
金城昌太郎びんがた工房の一人息子として生まれた。
幼少期、
テーブルの上に、いつも
白い画用紙と色鉛筆があった。
私は、それが嫌いだった。
なんでもいいからと言われても
描くものが無くなったからだ。
次第に、絵を描く事が嫌いになった。
おそらく父、紅型師:金城昌太郎は、
自分自身がが大切にする
ゼロから創作する精神を育てたかったようだ。
だが、幼い私は、全くそれが理解できなかった。
それから父は、
紅型職人の教育は一切やめた。
逆に琉球紅型の事以外であれば
何をやっても良い!と言われた。
私は、言葉通り自由に成長した。
日常的に
紅型師:金城昌太郎の作品を目にする機会は多々あった。
しかし、紅型は「大人の塗り絵」
そして、伝統工芸を古臭いと感じた。
私は、最先端の物や事こそカッコいいと思った。
高校を卒業し、専門学校に進学した。
その頃、ファッション、車、アイテム、ブランドと。
私は、ますます、新しいものにのめり込んだ。
最先端、新しいものが集中する、
都会への憧れが強くなり、卒業後すぐに大都市圏に就職した。
私は、仕事について数年、仕事は充実していた。
だが、ある失恋がきっかけで何もかも嫌になった。
そんな時、思いつきで地球一周のクルーズ船へ乗船した。
その船旅である青年実業家に出会った。
彼が語るどの話もスケールが大きく興味深かった。
そんな、彼と話すうちに、ふと、私の生い立ちや
父の仕事の話になった。
彼は、大変、私の話に興味を持ち、力強く、私に言った。
「沖縄には世界に誇れる『歴史』『自然』『伝統文化』がある。
この3つが揃っている地域は世界中を見回してもそうそうない!
そう思わないか?」
と言う思いもよらぬ一言に、私は、非常に共感した。
私は、さらに世界を回るうちに、
「沖縄の歴史や文化、伝統、自然は、世界に誇れる!」と、気持ちが膨らんだ。
同時に、生まれて始めて父の仕事、
伝統工芸の琉球紅型に強く興味を持った。
帰国後、すぐさま父に「琉球紅型に携わりたい!」と伝え
父に弟子入りを志願するも
一言で、大激怒され断られる。
ただ、自分の感じた直感を諦める事が出来なかった。
そこで、伝統工芸に関われる地域振興の仕事に就いた。
これまで、全く、興味の無かった伝統工芸の世界。
その数々の作品に触れる中
様々な職人から
紅型師:金城昌太郎の魅力を聞いた。
沖縄県指定無形文化財指定の凄い人だと知った。
顧客の注文を受けない妥協なき姿を知った。
琉球王朝時代の美を貫く姿勢を知った。
私は、昌太郎の紅型に対する情熱、
生まれて始めて昌太郎の作品に引き込まれた。
昌太郎の魅力を感じた上で
改めて作品を見た。
「伝統工芸は、古臭い!」ではなく
「貫き通した美がある!」
私の中の紅型のイメージは一気に変わった。
私は、「昌太郎の作品の美」を身に付けたいと思った。
強く世の中に伝えたいと思った。
それからは、試行錯誤の連続だった。
仕事で南風原町商工会の特産品開発に携わった人々。
伝統工芸の琉球絣、南風原花織の職人達。
何度も話し合い、アイディアを出し合った。
そしてついに、
紅型師:金城昌太郎の作品を纏いたい!という想いが形になった。
2019年 Shoutarou Binagata NAHAを立ち上げた。
Shoutarou Binagata NAHAは、そんな「金城昌太郎の作品を身に着けたい!」想いから生まれました。